日本中國學會

The Sinological Society of Japan

『日本中国学会便り』2009年第1号

2009年(平成21年)4月20日発行

彙報
若手と古手
理事長 池田 知久
副理事長退任にあたっての所感こもごも
池田 秀三
第14回唐代文学会に参加して
広島大学非常勤講師 中木 愛
村上哲見氏、恩賜賞・日本学士院賞受賞のお知らせ
理事長 池田 知久

宮紀子会員の日本学士院学術奨励賞受賞のお知らせ
副理事長 竹下 悦子
国内学会消息


若手と古手

理事長 池田 知久

自分がもう若手ではないと感じ始めたのは、いつごろからであったかと思い出してみる。やはり停年退職(私の場合は還暦とほぼ同じ)のカウント・ダウンを、
自分ではなく周囲が勝手に始めたころ、つまり五十代半ばあたりではなかったろうか。普通にはほぼ同じころ、
初孫が生まれて家族から「おじいちゃん」「おばあちゃん」などと呼ばれるようになるが、こうなると年寄り意識はますます進行する。
また、中国人と家族ぐるみのつきあいをしていると、私の経験ではやはり五十代半ばあたりから、中国人の子供に「爺爺」と呼ばれることが多くなる。
そんな時、あの『論語』為政篇の「五十にして天命を知る」とか、「六十にして耳順う」とかの言葉が、脳裏に浮かんでこないわけではないが、
しかし、これらは状況に適合する言葉という感じがしない。『論語』の五十・六十が自律的内在的に得た加齢意識であるのに対して、
私のは他律的外在的に与えられた年寄り意識でしかないからであろうか。
それ以前の今から十数年前は、肉体的にもそれほど衰えはなく、精神的にも緊張しており、また何よりも有力な老大家が何人も第一線で活躍しておられたし、
それに自分の学問に対する未達成感・不満足感がくすぶっていたので、自ずから若手であると意識していたように思う。私にとって若手と意識するとは、
まだ上があるのでそれを目指して努力すべきであり、努力し甲斐もあるはずとする自戒の念であったかもしれない。こうした自己意識については、
六十代半ばを過ぎた今日でも大きな変化はない。自律的内在的には自分をまだ未達成・不満足と痛感していて、『論語』で言えば、
「十有五にして学に志す」はクリアできたとして、「三十にして立つ」から「四十にして惑わず」にかけてを、依然としてさまよっているというのが、偽らぬ実感なのである。
しかし、肉体の衰えとそれに由来する精神の衰えは確実に進行しており、加えて周囲から、例えば「後期高齢者」などといったカウント・ダウンのかけ声がますます大音量のノイズとなって迫ってくる。
年金の説明を受け年金をもらい、介護保険料を支払い「バスや電車で1人で外出していますか」「この1年間に転んだことがありますか」などという生活機能調査に答えていると、
いやでも応でも年寄り意識が強化されてしまう。このような大音量のノイズを浴びせかけて古手を萎縮させるシステムは、現代日本社会に特有なものであって、
日本でも以前にはなかったことであろう。若手は有用、古手は無用とする考えは、現代日本社会のすみずみにまで浸透しているのだ。その背景には、
現代日本社会が非常に大きな変動の時代を迎えている、という事実があるのだと思われる。

話を中国研究の学問に対する態度に移すならば、根本的には研究者の価値観のいかんに帰着する方法論については、古手意識が芽生え始めたころから、
若手研究者や次世代研究者の意向・意欲を、なるべく尊重してそれを邪魔しないように努めてきた。と言えば聞こえはよいが、実際は自由放任、無視ないし軽視してきた。
なぜなら、自分自身の体験から言っても、学部学生・大学院生であったころから、確立した方法論を有する古手研究者に反撥しそれを批判しながら、
自己形成をしてきたという思いがあるからである。古手の先輩としては、その問題にまでは口を出さずに、有為な若手がもっと大きなスケールで自分の道を見出していってほしい、
というのが念願であり、現代日本の激しい変動の時代状況の中で、この点はますます強くなっている。

とは言うものの、今から振り返ってみれば、我々の方にも誤解や混乱があった。

一つには、古手が大きな研究成果とそれを可能にする方法論を前面に振りかざして、追撃してくる若手の前に立ちはだかり、
若手の方も実力を着けてそれを凌駕し突破していくといったような、世代間の厳しい切磋琢磨がなければ、若手の成長もありえず学問の進化も望むことはできない。
これは今さら改めて言うのも憚られる当たり前のことだ。

しかし、近年の日本社会や大学の実際は、私の見聞する小さな生活領域に限ってみても、若手に対してあまりに過保護である。
物分かりのよい古手が若手の負担を軽くしてやるために、さまざまの手立てを考え手取り足取りで保護しているが、
このやり方で日本社会の将来、中国研究の将来は大丈夫なのかと甚だ心配になる。若手を育てるためにどういう訓練を行うかを考えるよりも、
色々手立てを尽くして若手を守るのがヒューマニズムであると見なしたり、若手を保護しないと周囲から批判を受けたり、学生から嫌われ学生が去っていったり、
といった類の混乱が大量に発生している。このようなやり方を続けていると、若手は成長せず、古手は疲弊して、引いては学問も沈没してしまうのではないかと怖くなってくる。

二つには、中国研究のディシプリン(訓練法)として誰しも必要・不可欠と認めるものは、(A)古代漢語(漢文)ないし現代漢語(中国語)の読解力を用いて、
研究対象たる資料の内容・意義を正確に把握すること、(B)あらゆる形而上学・イデオロギーの思いこみを排して、確実な資料の示す事実を根拠にして立論するという実証主義、
(C)研究対象に関する先行の著書・論文の主なものをよく検討し、それらを批判的に踏まえて自らの新説を提起すること、の三点に指を屈するであろう。
これも今さらめく議論であることは承知している。ともあれ、以上の三点、短く言えば、(A)漢文・中国語による資料の正確な読解、(B)確実な事実を根拠にして立論する実証主義、
(C)先人の仕事を踏まえる研究史の総括・参照は、中国研究に携わる者が若手・古手を問わず誰しも認める最大公約数的なディシプリンと言ってよい。
これら以外にもまだ他にあるとか、これらは深いところで方法論に結びつくので、本当はもっと複雑・微妙であるとか、といった種々の問題があるのは確かであるけれども、
ここでは割り切って単純化しておく。そして、乱暴な意見を述べることを許してもらうならば、今日の普通の考えでは、
(19世紀の西欧世界における実証主義の問題は別として)これらは研究者の価値観に帰着する方法論とはおおむね無関係である。しかしながら、
私自身の体験に照らして言えば、以上のディシプリンに対する誤解や、それと方法論との相異についての混乱があったと思うのである。
そのために、古手は若手に以上の三点の不足がある場合でも、禁欲して口出しを遠慮するところがあったように感じられる。

以上のディシプリンは、特に中国研究という学問では、修得するのに相当年季のかかるものであるから、若手にとって不得意な項目である。
実際、あれこれの学会において投稿論文の審査をさせられる時、若手の論文の中に、以下のような不備を発見することが少なくない。
──(A)漢文・中国語の資料が正確に読めていない個所がある。古文字の判読・通仮を誤っているなどという場合も、その具体的な一例である。
(B)立論に必要な他の重要資料の存在を見落としたり、または意識的に無視したりするために、論旨の説得性に重大な影響が出ている場合がある。
(C)個々の具体的テーマまたは全体的課題について、先人が論著の中ですでに解決しているにもかかわらず、それを見落としている場合がある。
そして、こういった不備があり論文として致命的でさえあっても、合格して学術論文と認められてしまうことが、ないわけではない。
そこには、価値観の自由主義に鋭敏に反応する世代である古手の中に、ディシプリンの修得度と方法論の自由との相異に関する、誤解や混乱があるのではなかろうか。
これらのディシプリンについては、古手はしっかりと教え伝える方がよいし、若手は遠慮なく習い受ける方がよい。
方法論という項目になると、これはほとんど若手の独壇場である。既存の中国研究を革新したいと思う有為の研究者が考えるやり方は、
一つには、外面では、採用する資料を新たにして旧来の学説をひっくり返すというやり方がある。近年盛行している、
出土資料を用いた思想史・歴史学・語学の研究がこのタイプである。二つには、内面では、こちらの見方・考え方を変える、
すなわち採用する方法論を新たにするというやり方がある。戦前の経学的方法論を排して、中国思想史の方法論によった戦後の研究がこのタイプである。
前者は若手は勿論、古手も行いうるやり方であるが、後者は確立した古手には無理で、若手のみが行いうるやり方と言って差し支えない。
それ故、学界全体として、後者の面での若手の自由・闊達な問題提起が望まれるというのが、今日の状況であろう。
たまさか新しい方法論に基づいて対象の真実をあざやかに切り取った若手の論文を読むと、その柔軟な頭脳に激しい羨望の懐いを抱いたり、
新奇な行論振りに抵抗を感じて賛否を保留したりと、反応はさまざまではあるが、結局、頭がそれについていけない自らの頑迷固陋を憾むことになる。
恐らくいつの時代でも、世代間のギャップとはこうしたものであろう。

私の愛読書である『荘子』の寓言篇には、作者の語る真実の言(理論)が、

寓言は十の九、重言は十の七、卮言は日に出で、和するに天倪を以てす。

とまとめられている(この三言は天下篇にも出る)。この内、第二の「重言」(年寄りの言葉に借りて重みをつけた理論)については、直ぐ下に、

重言の十に七なるは、言をつく已す所以なり。是れ耆艾にして年先んずるが為めなり。而れども経緯・本末の以て年耆にあ期うこと无き者は、是れ先んずるに非ざるなり。
人にして以て人に先んずること无きは、人道无きなり。人にして人道无きもの、是れを之れ陳人と謂う。
〔重言が十分の七を占めるのは、言いたいことを徹底させるためである。なぜ言いたいことが徹底されるのかと言えば、
長老・先輩の言葉を借りて述べるからだ。しかし、その言葉に長老・先輩にふさわしい筋道・秩序が具わっていない者は、
先達と見なすわけにはいかない。年寄りでありながら人々の先達となる器量がないのは、人の道を具えていないのであり、
人でありながら人の道を具えない者は、これを老いぼれと呼ぶ。〕

と解説されている。自分の主義主張を自分の言葉として述べるのではなく、年寄りの「重言」に仮託して述べようということに関しては、
その社会的基盤があれこれと推測されよう。例えば、この文章が綴られたころ、中国社会はすでに変動の時代から抜け出て、人々の価値観が固定化しつつあったので、
曲がりなりにも年寄りの言葉を重んずる安定期の旧習に戻ったのであろうとか、激しい変動の時代ではあったにしても、中国古代は大局的には巨大な農耕社会であって、
そこでは年寄りを重んずる旧習が連綿として続いていたのであろうとか、等々。(ちなみに、人間世篇の顔回・仲尼問答では、
この「重言」に類する「古となかま徒と為る」という説得法がにべもなく否定されているが、人間世篇の方が『荘子』本来の思想であると考えられる。)しかしながら、
表面的には古手を重んずるかのように装ってはいるものの、若手である寓言篇作者の古手に対する態度は、実はひどく手厳しい。
年寄りがその身に「人の道」を具え「人に先んずる」器量を有することを求めているが、このハードルを何とか越えられる者は多くはあるまい。
その上で、作者はそのような年寄りの当代社会における権威を利用してしまおうと言う。このような内容の「重言」は、
作者自らの胸に抱く「言いたいこと」つまり独自の強烈な主義主張を、当代社会の人々に向かって効果的に提唱し説得するという目的の、
単なる手段にすぎないかもしれない。とすれば、当然のことながら、現代の学問的表現や理論的言説とは様相が異なってくる。
そして、この手段が結局、『荘子』作者の思惑どおりに成功したのか否か、我々には分からない。ただ、まちがいなく確かだと思われることは、
これが若手から古手に向かってしかけた、世代間の切磋琢磨の最も早い一例であることである。


副理事長退任にあたっての所感こもごも

池田 秀三

本年三月末をもって副理事長を退くこととなった。退任にあたって、会員の皆様にご挨拶申し上げよとの出版委員会委員長からのご下命である。「堪忍してよ」と思ったが、委員長は副理事長退任の挨拶は「故事」であると宣う。そう言われれば、以前、金・藤井兩元副理事長が書かれたものを拝読した憶えがある(ような気がする)し、参考のためにと探し出した「學會便り」(2007年第1號)には大上前副理事長のものされた一文が掲載されている。というわけで、お断りもならず、書くことを了承したのだが、何を書けばいいのか、はたと困惑した。原稿の締め切り日も近づき、取り敢えずワープロに向かったものの、書くべきほどのことはやはり何も思い浮かばない。いやはや困った。
普通に考えれば、任期中に行った仕事の報告をすればよいのであろう。が、実は、何もしていないのである。したことと言えば、定例の理事会に出席したことと、所管の委員会の会議にオブザーバーとして出席したことぐらいである(副理事長は各種委員会と理事長の連絡役として、それぞれ3もしくは4つの委員会を担当することになっている。私の担当は大会委員会・論文審査委員会・将来計画特別委員会の3つであった)。要するに会議に出ただけのことである。しかもそれらの各委員会の活動状況・実績は「學會便り」の中で各委員長から随時報告がなされており、私が別途報告すべきことは何もない。理事会や委員会の出席に加えて、電話やメール等により、理事長から急ぎの案件について諮問されることは数回あったが、それも広い意味での会議(いわゆる持ち回り)であるから、結局のところ、会議に出ただけという実態に変わりはないし、その諮問の結果については、理事長から適宜報告があるはずである。というわけで、副理事長職の実績としてここでとくにご披露すべきことなど、どうあがいても出てこないのである。副理事長とは員に備わるのみの、かくも曖昧模糊とした存在なのである。ただ、もう一人の副理事長、竹下さんの名誉のために言っておかねばならないが、竹下さんは在京で、しかも会計を担当されたのでかなりお忙しく、ある程度は実質を伴った副理事長であった。が、少なくとも私は、上述のとおりの鵺的存在であった。やっているときは何かしらやっているような気がしていたが、こうして任を終えてみると、副理事長って一体何だったんだろうという思いが強い。
さて、だしに使ってまことに申し訳ないのだが、前述の大上さんの挨拶文は「よく分からないままに」と題されており、その末尾で「分からないままに担当し、分からないままに任期を終える。… 任期を終えて責任上?書かなければならないから、これでも気持ちと主張は抑えて無理矢理書いた」と述べておられる。大上さんもやはり、副理事長の職務内容はよくわからなかったようであり、退任の挨拶文の執筆には相当苦労されたことがうかがえる。大上さんは副理事長を3期6年務められた有能な方であり、実際、副理事長として学会に多くの貢献をされた。その氏にして副理事長とは何をやるのかよくわからなかったと言われているのだから、たった1期2年しか務めなかった私ごときがわかるはずもない。とすれば、ここで書くべきことはただ一つ、私ごとき無能の者が副理事長の職にあったために学会に与えたであろう迷惑を同僚の理事、事務局の方々、そして広く会員諸氏全てにお詫び申し上げること以外にはない。どうも役立たずで申し訳ありませんでした。
と、謝ったところでこの一文を閉じたいのだが、まだ求められた枚数の半分しかない。もはや副理事長の退任の挨拶文として書くことなど何も残っていないので、またも大上さんの顰みにならって、「私的なつぶやき」をしたためることでお茶を濁させていただくこととする(大上さん、何度もだしにしてご免なさい)。
我が師湯浅幸孫先生は、「学会なんてそんなに大事なものではない。若い人が利用すればいいだけのものだ」という趣旨のことをよく口にされていた。先生は腹蔵のない方であったから、これはご本心であったと思われる。事実、先生は学会活動には熱心ではなかった。学会が大事なものかいなかはさて置くとして、それが若い人が利用するためにあるものだという点は、私もまったく同感である。だから、若い院生クラスの人たちに学会への忠誠心はおろか、帰属意識さえ求めようとは毛頭思わない。若い人たちの学会の利用価値の第一は『日本中国学会報』への投稿権であろう。馬鹿げた業績主義は今後も益々はびこるであろうから、この投稿権の需要も益々高まるであろうが、逆に数回落選すれば、学会を辞めてしまうひとが出る怖れはある。しかし、それはやむを得まい。また外国人留学生ははじめから終生の会員になるつもりなどなく、日本にいる間に業績を挙げておく目的で一時的に入会している人も少なくないであろう。これも私は何ら構わないと考える(ただし、退会手続きだけはきちんとしておいて欲しい。行方不明が一番困るのである。仄聞するところでは、会費を四年間払わなければ自動退会になると、故意に支払いや転居通知をしない者が、若い人のみならず、年配の会員にもいるらしい。それは研究者以前の、人間として失格である)。
若い会員の退会は学会の高齢化や会員総数の減少につながるかもしれないが、それもまた致し方ない仕儀と私は考えている。財政的困難に陥るほどの大幅減は問題であろうが、学会はむしろこぢんまりとしているほうがいい。中国古典学の将来はもうはっきり見えているのだし、また学術会議や学振に対する発言力などどうでもいいじゃないか、というのが私の本音なのである(学会の役員が吐く台詞ではないことは承知しているが、これはあくまで「私的なつぶやき」である)。量的拡大を目指すより、こぢんまりとした学会として質の維持を図るという行き方もあるのではあるまいか。
ようやく求められた枚数に近づいたので、最後にこの紙面を借りて、弊学で開催された第60大会へのご協力を感謝申し上げたい。500名を超える参加者は私どもの予想以上であり、少なくとも規模の上では盛会となったこと、ありがたく御礼申し上げます。お蔭様で皆様からも好評いただいた。外交辞令も混じっていようが、率直に言ってホッとしているところである。ただ、閉会の辞でも申し上げたように、今回の大会では意図的に簡略化を図ったところがある。それは大会と言えば、何か仰々しくセレモニーをやらなければいけないという強迫観念があり、その観念が多くの大学に大会開催校となることを逡巡させている原因の一つとなっているのではないかと感じたからである。京大はこんないい加減なやり方でも曲がりなりにやりおった。これならうちでもやれるのではないか、と思っていただければ、手を抜いた甲斐があろうというものである。これからは是非未開催校に積極的に開催していただきたいと願っている。
私個人としては、とにもかくにも大会開催準備会代表と副理事長を務め終えた。これで後ろ指を指されずに、いつでも学会を辞められる!その日を待望する日々である。


第14回唐代文学会に参加して

広島大学非常勤講師  中木 愛

2008年10月25日~29日、安徽省蕪湖市の安徽師範大学および黄山市の黄山国際大酒店において、唐代文学会(中国唐代文学会第14届年会曁国際学術研討会)が開催された。受付で配布された参加者名簿によると、本大会への参加者は125名。うち、台湾9名、香港1名、シンガポール1名、マレーシア1名、ニュージーランド1名、韓国5名で、日本からは、下定雅弘氏(岡山大)・浅見洋二氏(大阪大)・佐藤浩一氏(早稲田大非常勤)・高橋幸吉氏(慶応大)・益西拉姆氏(二松学舎大院生)と筆者の6名が参加した。
25日午前、安徽師範大学田家炳教育書院報告庁において、同文学院院長・胡伝志氏の司会のもと、開幕式が行われた。唐代文学会副会長・董乃斌氏(上海大)による開会の辞に続き、大会テーマ発言では、まず下定氏が、日本における唐代文学研究の近況を報告された。台湾の近況は、何寄澎氏(台湾大)が報告され、台湾にも日本ほど大規模ではないが中唐文学会があり、仏教や禅に関する研究が深まっているという内容が印象的だった。また、葛暁音氏(北京大)が、『詩経』から六朝に到る詩体について、ご自身の研究成果を報告され、三秦出版社の淡懿誠氏が、近年盛んに報告されている出土文献と唐代文学研究の現況を述べられた。
討論会の会場は、25日午後~26日午前が安徽師範大学構内の鉄山賓館。26日午後に黄山市へ4時間弱のバス移動の後、27日午前の討論会および午後の閉幕式が、黄山国際大酒店で行われた。参加者は、大会2ヶ月前に提出した論文の内容によって、3つの組に分けられ、莫礰鋒(南京大)・戴偉華(河南師範大)両氏を代表とする第1組(43名)は、初唐から盛唐にかけての内容が中心で、日本からは佐藤氏が参加した。趙昌平(上海古籍出版社)・尚永亮(武漢大)両氏を代表とする第2組(42名)は、主に中唐の内容で、下定・高橋・益西拉姆各氏と筆者が参加、張明非(広西師範大)・李浩(西北大)両氏を代表とする第3組(40名)は、詩の題材、ジャンル、詩体、仏教、文化背景や小説に関する論が集まり、浅見氏が参加した。
各組ともに、更に6つのグループに分けられ、1グループ100分に、約7名の発表者が割り当てられた。一人あたりの発表時間は10分程度、7名全員の発表が終わった後、残りの20分でまとめて討論をするという形式たった。発表時間は、毎回、参加者の数や司会者の方針等によって変動があるようだが、今回筆者が参加した第2組では、なるべく討論の時間を確保しよう、時間を均等に配分しようとの配慮から、比較的制限が厳しかったようである。時間をオーバーすると、茶杯の蓋をティンティーンと叩いて発言を終えるよう促され、終了時間ぎりぎりまで白熱した討論が続いた。ただ、具体的な発表時間や何組に参加するのかといった詳細が、当日になるまで知らされなかったため、初参加の身には戸惑いや不安も感じた。
2組の発表は、とりわけ元和期に関する内容が集中した(韓愈6篇・賈島3篇・白居易8篇・張籍2篇・柳宗元4篇)が、研究テーマは、詩人の経歴・交遊・思想、詩の芸術的価値、受容史、詩論、文体など幅広く、問題意識の明確さ、テキストに即した緻密な考証、視点の新しさ、歴史面からの考察といった点に特徴が見られたようだ。例えば、益西拉姆「賈島之詩人形象―在虚与実之間」は、現在の賈島に対する人物像が十世紀中頃以降に確立する経緯や、賈島と無本が同一人物ではない可能性を、劉明華(西南大)「関於張籍『節婦吟』的本事及異文等問題探討」は、張籍「節婦吟」が入幕辞退を詠んだものであるという従来の解釈が、宋代以降に成立したことを指摘した。下定雅弘「試論『鶯鶯伝』的主題―兼論与「情賦」的関係―」は、「鶯鶯伝」のテーマを、志怪小説の流れではなく「情賦」の系譜において捉える試みであり、蔡瑜(台湾大)「詩析王昌齢『詩格』的「身―境」論」は、王昌齢の詩論について、「物境」「情境」「意境」に加えて、「身境」という新しい角度から分析を加えたもので、新鮮な視点が注目を浴びた。潘務正(安徽師範大)「明清翰林院祠祀韓愈考」は、韓愈が翰林院において祭られるようになった経緯を考察した。白居易研究の増加も、近年目立った傾向のようで、尚永亮(武漢大)「“白俗”論及其在両宋的流変」や曹淑娟(台湾大)「白居易的江州体験与廬山草堂的空間建構」をはじめ、筆者も「白居易閑適詩中対於生理層次舒適感的表現―試論中唐詩歌的創新精神―」という題目で発表した。大会参加者の論文は、例年どおり『唐代文学研究』(広西師範大学出版社)として刊行される。
このほか2組では、出土文献と受容史研究の問題が話題となった。近年は、墓誌など夥しい数の資料が出土しており、正式に発表されただけでも数千を超えるという。中には、一昨年話題になった韋応物の墓誌など、非常に高い価値を持つものも含まれるが、韓愈のように高い原稿料によって執筆を依頼されるケースもあるため、とりわけ中唐以降は、墓誌の商品化・商業化といった社会的背景を加味して判断する必要がある。受容史研究では、後世への影響が多く取り上げられるのに対し、先行文学からの影響があまり考察されず、一面的である。そして、作品の第一読者の評価が、後世に絶対的な影響を与えることを認識する必要があり、受容者の個性や思想、社会背景も加味するべきだといった指摘があった。
また、本大会では、1984年から副会長を、1992年から会長を務めておられた傅璇琮氏(中華書局)が名誉会長に退かれ、陳尚君氏(復旦大)が新しい会長に選出された。傅璇琮氏は、閉会式において、学会の更なる発展と海外交流の一層の充実を希求されるとともに、本大会とは別に、もう少し専門テーマを絞った小規模な討論の場を設けてはどうかと述べられた。
筆者は、今回初めて中国の学会に参加したが、多くの面で驚きの連続だった。日本の学会は、論文を仕上げる途中での構想発表という色合いが濃いが、中国の場合、完成した論文の紹介、最終チェックといった意味を持つようである。参加者は全員、論文を持参して発表することが求められ、年齢層は40代以上の大学者が大半を占めているようだった。本大会も、一部主催校の傍聴を除いて、一般の学生は参加できないそうである。内容面の印象は、テキストの個別の解釈を問題にした発表はあまり見られず、解釈は大前提として参加者の中に共有された上での、更なる議論が展開されていた。マクロな視点からの考察は、筆者が平素から一番の課題として痛感しているものなので、白熱した討論を目の当たりにできたことは刺激的であり、自分の発表内容(白居易の閑適詩)に関しても、宋代における受容という大きな枠組みで捉えるべきだという貴重な指摘を頂くことができた。一方でまた、大会中は、多くの参加者の口から「精細的考証」「以文本為中心」といった言葉を耳にし、テキストに即した緻密な考証の必要性が、改めて認識されているように感じた。日本人の目を通してこそできる細やかな読解、一字一句の解釈を追究する研究スタイルが、今後大陸においても一層重視されるのではないだろうか。
閉会式の後は宴会が催され、参加者による歌や踊りの余興も加わって、こちらも、日本では経験したことのない盛り上がりようだった。翌28日は、2000年に世界遺産に登録された安徽古村落の西递と宏村を、29日は黄山を観光し、和気藹々とした雰囲気の中、討論会とはまた別の形の交流を楽しむことができた。中国の学会への参加は、提出論文の他にも、言葉の問題、渡航費用、体力面、日程調整など、克服しなければならない問題が多いが、それだけに中身の濃い充実した時間であった。また参加できるように、今度はもう少し聴き取れるように、そして討論にも参加できるように、研究・語学ともに研鑽を積まなければと思う。次回は、2010年に新彊で行われるとのことである。


村上哲見氏、恩賜賞・日本学士院賞受賞のお知らせ

理事長 池田 知久

本学会会員村上哲見氏(東北大学名誉教授)が平成21年度恩賜賞・日本学士院賞を受賞されることになりました。
村上哲見氏は、昭和5年7月18日、中国大連市に生まれ、昭和28年3月京都大学文学部(旧制)中国語学中国文学専攻を卒業、同年4月同大学大学院文学研究科(旧制)に入学、昭和34年3月同研究科を退学、昭和49年1月、論文題目「北宋詞研究」をもって京都大学より文学博士の学位を授与されました。昭和34年4月、京都学芸大学講師に採用されて以来、東北大学教養部、奈良女子大学文学部において教鞭を執られ、昭和60年4月には東北大学文学部教授に転任、平成6年3月をもって停年により退職し、同年4月1日には東北大学名誉教授に就任されました。
村上氏の学術上の業績は幅広いものがありますが、学位申請論文が「北宋詞研究」であるところから理解されますように、中国韻文文学、ことに「詞」の研究がその中心を占めています。この学位論文を主軸として出版されたのが『宋詞研究――唐五代北宋篇』(昭和51年)ですが、氏は本著刊行以来、孜々としてその続編たる南宋篇刊行の準備に取りかかられ、ついに平成18年に至り、『宋詞研究――南宋篇』を公刊されました。今回の受賞はこの両書における「詞」研究の学術上の功績に対して授与されたものです。
氏は両書において、唐宋間の文学傾向の変化という巨視的な文学史的視点に立って、唐末・五代に始まり、北宋を経て南宋にいたる「詞」と称される抒情文学の発生・展開・成熟の歴史を、主要な作家の作風とその韻文様式の変遷を客観的な資料分析により、はじめて体系的に描き出すことに成功されました。この学術上の業績が顕著であると評価されて、今回の受賞に至ったものです。
中国文学研究者に対し、恩賜賞・日本学士院賞が授与されたのは、平成5年の田中一成会員以来16年ぶりのことであり、本学会にとっても大変栄誉あることと考えます。
村上哲見会員の受賞を心よりお祝いし、併せてますますのご健勝をお祈り申し上げます。


宮紀子会員の日本学士院学術奨励賞受賞のお知らせ

副理事長 竹下 悦子

本学会会員宮紀子氏(京都大学人文科学研究所助教)が第5回日本学術振興賞、並びに日本学士院学術奨励賞を受賞されました。
本学会では毎年、日本学術振興会に対して日本学術振興会賞の候補者を推薦しております。この賞は優れた若手研究者の顕彰と支援を目的として平成16年度に創設されたもので、本年度が第5回になります。本年度は大学等研究機関・学協会から374名の推薦があり、その中から24名が選ばれました。日本学士院学術奨励賞は、さらにこの日本学術振興会賞に選ばれた24名の中から数名が受賞するもので、今回の受賞者は6名でした。
宮会員の研究課題は「モンゴル時代の文化政策と出版活動」であり、『モンゴル時代の出版文化』等の論著において、北方遊牧民が漢土を支配した大元ウルス時代が、中国文化が破壊された「暗黒時代」ではなかった事実を、豊富な文献資料に基づいて明らかにした研究が評価を受けました。
授賞式は本年3月9日、日本学士院において挙行され、秋篠宮殿下御臨席のもと日本学術振興会理事長及び日本学士院長から賞牌・賞状等が授与されました。本学会からは池田理事長の代理として副理事長の竹下が参加いたしました。
人文学系からの受賞者は毎年少数であり(日本学術奨励賞においては本年度24名中4名)、その中から特に学士院奨励賞に選ばれたことは、本学会にとっても大変栄誉なことであり、また人文学の発展にとっても貴重な受賞だと考えます。
宮会員の受賞を心よりお祝い申し上げますと同時に、今後のご活躍を期待いたします。


国内学会消息

◎北海道中國哲學會

1月28日
・戴東原「群」「欲」觀念的思想史回溯   國立臺灣大學中國文學系教授 鄭  吉雄
4月25日
・博士論文要旨發表會   北海道大學大學院文學研究科專門研究員 松本 武晃・北海道大學大學院文學研究科專門研究員 江尻 徹誠
5月30日
・白隱慧鶴の内觀法について   佐藤鍊太郎
6月27日
・『東坡易傳』に見える經濟觀念   加藤 眞司
7月25日
・明末淨土思想考察   江尻 徹誠
10月25日
・徂徠學再考   東北大學大學院文學研究科准教授 片岡  龍
10月31日
(卒業論文構想發表)
・揚雄の著述意圖―『法言について』―   三上 雄貴
(修士論文構想發表)
・山鹿素行の孫子諺義の研究   張   捷
11月28日
・臺灣留學について   關村 博道

[特別講演會]
10月27日
・14C~19Cの日本の學問の特色と、その變化―足利學校から考證學まで―   東北大學大學院文學研究科准教授 片岡  龍

[大會]
第38回大會
8月9日、於マリンヒルホテル小樽
・中國古代の形式的論理の記述とその構造(中國古代における措辭形式による論證)   近藤 浩之
・葛洪の『抱朴子』内篇著作の目的について   北海道情報大學經營情報學部教授 玉置 重俊
・汪克寛『春秋胡氏傳纂疏』と『春秋大全』   松本 武晃
・「隱」者の功用―邵雍と常秩   藤女子大學日本語・日本文學科教授 名畑 嘉則
・吉田篁墩『論語集解攷異』について   水上 雅晴

○刊行物
『中國哲學』第36號(8月)

(水上雅晴 記)

◎東北支那學例會

○二月例會
二月十五日(卒業論文・修士論文発表会、中文・中思分野のみ抜粋)
──修士論文発表会──
・高行健の戯曲研究 山脇水園
──卒業論文発表会──
・五斗米道における治療行為とその宗教的意味  片岡純也
・米芾における平淡と天真 池田千晶
・蘇轍『老子解』における「道」について 渡邊秀一
・朱熹の孔子観──『四書集注』を中心に── 加藤祐一
・佐藤一斎の思想について──『伝習録欄外書』をてがかりに── 綿谷浩太郎
・日中同形語に関する考察 小林真登香

○四月例会
四月十二日(新入生歓迎会)
・明代思想研究の愉しみ 三浦秀一

◎東北中国学会

第五十七回大会 五月二十四日、二十五日
第一日 於北海道大学
〔研究発表〕
・元祐の吏額房──宋三省制の一側面── 東北大学 熊本崇
・哈佛大学本『華英通語』序文の「唐音不正」について 京都産業大学 矢放昭文

〔公開講演〕
・魯迅『吶喊』自序を読む 元東京大学教授 丸尾常喜

第二日 於小樽朝里クラッセホテル
〔研究発表〕
第一分科会(文学・哲学)
・道蔵本『女青鬼律』に見える鬼神観念の諸相 東北大学大学院 佐々木聡
・李商隠「景陽宮井双桐」詩について 東北大学 大山岩根
・「南柯太守伝」の時空と語りの枠 大東文化大学大学院 葉山恭江
・章学誠の「経世」観について 東北大学大学院 尾崎順一郎
・張若谷と戦争文学 大阪教育大学 中野知洋
※第二分科会(史学)は省略

◎東北大学中国文学談話会

第百六十八回中国文学談話会 二〇〇八年七月十五日
──卒業論文構想発表会──
・モティーフによる『詩経』所収詩の考察 高橋良知
・長恨歌と源氏物語 荒川里奈
・『平妖伝』の研究 岡島君和

第百六十九回中国文学談話会 二〇〇八年七月二十二日
──卒業論文構想発表会──
・『老子』注釈書から見るそれぞれの『老子』観 関場美紀
・六朝から唐代にかけての近体詩成立に関わる文学理論──四声と平仄を中心に──  薪塩悠
・『聊斎志異』──〈狐〉と〈幽鬼〉の違い 土田かおり

第百七十回中国文学談話会 二〇〇八年十一月十五日
──卒業論文中間発表会──
・『詩経』における「興」についての一考察 高橋良知
・六朝から唐代にかけての文学理論と近体詩との関わりについて
──病犯論の展開からみた近体詩律── 薪塩悠
・長恨歌と源氏物語 荒川里奈

◎筑波中国学会

○例会
5月8日(木)
・王漁洋の女性を詠ずる詩についてー「南唐宮詞」・「秦淮雑詩」を中心にー 荒井  禮
6月12日(木)
・王勃の思想について―平台秘略論を手がかりに―            有馬 みち
6月19日(木)
・魚玄機の詩について―詩語のイメージの崩壊―             大塚 千晶
9月18日(木)
・『水滸伝』の燕青像成立過程の一考察―燕青・徽宗・高俅の比較の中で―  花岡 亜希
10月9日(木)
・歴史としての『聊齋志異』                      高橋 恒輔
11月13日(木)
・沈約の文学にみえる隠逸観                      北島 大悟
○刊行物
『筑波中国文化論叢』第27号(3月)

(稀代麻也子 記)

◎中国文化学会

○例会
3月8日(土) 於筑波大学東京キャンパス
・王漁洋の新楽府について                筑波大大学院 荒井  禮
・呉昌碩と水野疎梅                   大妻女子大学 松村 茂樹
4月26日(土) 於二松学舎大学
・阮籍の四言(詠懐詩)をめぐって            文教大名誉教授 沼口  勝
10月5日(日) 於青山学院大学
・元結「舂陵行」再論―「漫叟」の視座―           千葉大学 加藤  敏
・華夷思想と讖緯と浮屠                福島大名誉教授 大久保隆郎
12月6日(土) 於青山学院大学
・明治中期の新式貸本屋と漢籍目録            二松学舎大学 佐藤 一樹
・『山公啓事』における貴族の自律性            大東文化大学 渡邉 義浩
○大会
6月28日(土) 於横浜市立大学金沢八景キャンパス
[研究発表]
・張資平作品にみられる恋愛用語             筑波大大学院 清地ゆき子
・『文心雕龍』の言語思想―「隠」義考序説―         筑波大大学院 和久  希
・唐代遊侠詩の変質―王維「少年行」をめぐって―      筑波大大学院 齋藤  聡
・王勃「平台秘略論」に関する一考察           筑波大大学院 有馬 みち
・沈約の隠逸思想と文学                 筑波大大学院 北島 大悟
・李白「黄鶴楼送孟浩然之広陵」における「煙花」について 北海道教育大学 大橋賢一
・李陵・蘇武詩の成立の場                 県立広島大学 柳川順子
・二つの「桃花源記」から読み取れるもの         大東文化大学 門脇 廣文
・漱石詩の仮構(初探)―修善寺仰臥十二首をめぐる一側面―  青山学院大学 大上 正美
[講演]
・金沢八景の歴史と変遷         神奈川県立金沢文庫主任学芸員 永井  晋
○刊行物
『中国文化』第66号(6月)

(稀代麻也子 記)

◎六朝学術学会

○例会
第17回研究例会 (3月15日 於二松学舎大学)
・二陸贈答詩中的東南士族             清華大学 孫 明君
・賈謐の二十四友に関する二三の問題     京都外国語大学 福原 啓郎
・嵆康と「釈私論」              青山学院大学 大上 正美
第18回研究例会 (12月13日 於二松学舎大学)
・天台の外典利用――天台注釈書に引用された「博物志」のある一条より   京都大学大学院 佐藤 礼子
・『文心雕龍』総術篇における「術」の概念について   中部大学 竹澤 英輝
・古詩十九首的音楽与主題        湖南師範大学・京都大学 楊 合林
○大会
第12回大会(6月15日 於斯文会館)
〔研究発表〕
・嵆康の「声無哀楽論」について──「楽」の解釈を中心に   京都大学大学院 宍戸 友紀
・西晋武帝の弟・司馬攸について        大東文化大学 小池 直子
・王弼の「象」とその背景             大阪大学 辛 賢
・鮑照の「河清頌」の迎合的性格とその意図   日本学術振興会特別研究員 土屋  聡
〔記念講演〕
・六朝志怪流行の背景を探る  東京大学・明海大学名誉教授  竹田  晃
○刊行物
『六朝学術学会報』第9集(3月末日)

(平井 徹 記)

◎国士舘大学漢学会

○第42回大会(2月17日)
会場 世田谷校舎10号館10329教室
[卒論発表]
・『孫子』研究                石田一希
・『貞観政要』研究              我満奈美
・『荀子』研究                星 克彦
・『西遊記』における龍について        白幡由記
[卒業生報告]
・北京留学を終えて  筑波大学大学院博士課程 斎藤  聡
[研究発表]
・『聊齋志異』研究序説  国士舘大学修士1年 石井 隆也
・神祇令神社祭祀考      国士舘大学教授 藤森  馨
[特別講演]
・魏晋南北朝期における八句詩形の展開について
筑波大学名誉教授・国士舘大学講師 向嶋 成美
○作詩交流セミナー
・蘇州大学(8月20日~29日)
指導 鷲野正明  参加学生 7名
○第43回大会(10月29日)
会場 世田谷校舎10号館10329教室
[海外活動報告]
・蘇州大学作詩セミナー     国士舘大学教授 鷲野 正明
[研究発表]
・二神約諾神話とはー中世に誕生した神話―   国士舘大学教授 藤森  馨
・中林梧竹の書論―正・奇の論と「復帰」の思想について―  国士舘大学教授 内村 嘉秀
[特別講演]
・現代新儒家について       前筑波大学教授・国士舘大学講師 中村 俊也

○刊行物
『國士舘大學漢學紀要』第十號(2008年3月)

(鷲野正明 記)

◎日本漢文小説研究会

○月例研究会    於湯島聖堂斯文会館
5月11日
・論文集発刊について
・藍沢南城「老狐禁夫殺生記」について       内山知也
7月27日
・風来山人『刪笑府』の特色と翻刻の問題点 ―IT研究会をとおして―   川邊雄大
10月5日
・明治期の上海における邦人の活動について
―『滬游雑記』と東本願寺上海別院における日中文化交流を例として   川邊雄大
12月21日
・国際学術討論会「異時空下的同文詩寫―臺灣古典詩與東亞的交錯」参加報告   厳明、川邊雄大
・明治時代的二松學舎和臺灣―以佐倉孫三爲中心   川邊雄大

(鷲野正明 記)

◎明清文人研究会

○月例研究会    於湯島聖堂斯文会館
4月13日
・研究論集『徐渭』編集会議
6月29日
・研究論集『徐渭』編集会議
9月21日
・研究論集『徐渭』編集会議
11月16日
・「近年来中国大陸的明代文学研究」        陳 正宏

(河内利治 記)

◎宋詞研究會

○研究會及び例會
9月5日(土)、6日(日) 『唐宋名家詞選』譯注檢討會
(於中京大學中京大學文化科學研究所)
龍楡生編『唐宋名家詞選』の譯注および檢討
1月12日(土)至12月27日(土) 小風絮會
(於立命館大學文學部中國文學專攻共同研究室)
龍楡生編『唐宋名家詞選』の譯注および檢討
○刊行物
『風絮』第四號(3月)

(萩原正樹 記)